「時間」のところで触れたように、小学5年生、6年生となると、微妙な対応のむずかしさに直面することが多くなります。昔は、そのころから言葉が汚くなると言われていました。「クソババア」というのも昔はこの年齢からだと言われていました。ところが、今は、幼稚園年長くらいの子でも母親に「お前に言われたくない。この、ゴミ、クズ。死ねや」などという、会社で大人が同じことを言ったら即刻クビになるような暴言を、パワハラとされずに、堂々を言っているのは世の中では子どもくらいになり、それがどんどん低年齢化しているのを眺めていると不思議な気持ちになります。
さて、小学5年生、6年生になると、「自分」についての悩みがきざし始めます。小学4年までは、極端に言えば、自分の欲しいものが手に入るかどうかという悩みであり、小学5年以降は、周囲から自分はどう見られているのか、あるいは、自分が自分をどう見えているのかということめぐる悩みに変化していくのです。例えば、特別支援学級に通っている自分を、交流学級の同級生がどう見るのかとか、そういう自分を自分がどのように感じるのかということが悩みの中心になることが多くなり、こうした悩みにどう関わっていくのかが親にとって新たな課題になってきます。そして、親の合理的、常識的な視点だけから押し切ることは困難になります。
また、ちょうどこの時期、定型発達の子どもでも、「自分を見る目」として「こうじゃないといけない」「ああじゃないといけない」「それに沿えない自分はクズ」という厳しい「自分の内部の視線」が前景化し始める時期なので、元々、発達特性として自己と異なる対象や環境に過敏さを有する子どもは、余計に、そうした過酷な「内的視線」が強まります。この過酷な内的視線が、外から来ると感じられると、ことに学校という装置から由来すると感じられると、この時期からしばしば、不登校が生じます。多面的、客観的に大人みたいな発言をするので、「成長した」と感心する次の瞬間、幼児のように勝手なことを言ったり甘えてくるので、そのギャップに親は戸惑います。このギャップが大きすぎると、学校に行くことが困難になりがちです。
また、「大人の部分」と「子どもの部分」はこの時期、まだ、「縦列駐車」であり、葛藤にはなっていません。この二つが「並列駐車」となり葛藤となり、折り合いが着くのは、せいぜい高校生以降です。従って、小学5年、6年という時期は、親が葛藤を肩代わりしなければなりません。つまり、どこまで課題達成的な「大人の部分」の発達を「頑張れ」とうながすのか、どこから自己肯定感のベースとなる「頑張らなくてもよい」「子どもの部分」を受け入れるのか。発達特性があり、「こうじゃないといけない」というのが強い子であれば、とりわけ、後者を重視することが必要です。かといって、前者がゼロであってもよろしくない。この辺りが悩みどころなのです。