2)家族全体の中で同胞(きょうだい)に割り当てられる「役割」とそこからの解放
同胞の個性の差は生まれつきの部分が大きいのですが、さらに、家族の中である役割が無意識のうちに付与され、「役回り」が固定しがちです。「いつも損な調整役」ばかり引き受けてしまったり、いつも「要領よく自分のやりたいことをやる」子だったり、「怒られ役」を引き受けたりします。家族の無意識のドラマのシナリオが、極端な役回りを同胞間に割り振っているという側面もあるのです。
子どもの元来の性分や能力によって、同じ両親から生まれた子どもであっても、これほど違うのかというくらい、同胞の個性が異なることはしばしば生じることです。しかし、生まれついた傾向のみならず、家庭の中で、知らず知らずの間に、その子にどういう役割が付与されてしまうか、また、その子がそういう役割を知らず知らずのうちに積極的に引き受けてしまうかということで、生まれつきの個性の差が、さらに顕著になります。例えば、両親の喧嘩であれ、母親と祖母との間の嫁姑の骨肉の争いであれ、そうした家庭の中に不和が勃発するとすぐに間に入り、調整役を買って出る子が一方でおり、他方、そういうときには、要領よくサッと自室にもどり、自分の好きなことに熱中したり、勉強やスポーツをしたりして、挙句、成績がよかったり運動ができたりして親にも可愛がられるというような子がいたりということが生じます。これらのことは一般論として同胞の間にごく日常的に起こるのですが、発達特性を持った育てにくい子が同胞の中にいる場合には、これが、なおさら顕著化します。そして、どちらにせよ、こうした同胞間の、「調整役」タイプや「わが道を行く」タイプの個性の差が、あまりに極端に固定している場合、その家庭の大人の間で、特に夫婦関係の間で、役割が固定していることがしばしばあります。 例えば、何かあると、最後は父親が切れて、怒鳴り暴力を振るう「暴君」となり、母親は黙ってそれに服従する「従順で無力的な妻」であり続けるとします。この場合、そういう固定した役割関係で、見えにくくなっているのは、「暴君」である父親の中に生じているであろう、暴力でコントロールしなければならないくらいの無力感であったり、傷ついていたりすることであり、また母親の中には、従順でなければ見捨てられ孤立する恐れや不安であったりします。あるいは暴君的で幼児的な夫を、身を粉にして世話することで、自分自身の中の激しい依存欲求を満たしているのかもしれません。いずれにせよ、固定した夫婦間の役割が繰り返し演じられることによって回避されているのは、双方が本当に苦痛に感じたり、恐れていたりすることです。そして、それはいつの間にか、家族の中でそういうことにもっとも敏感な子ども一人が無意識的に選ばれて、その受け皿(調整役)にされてしまうのです。したがって、同胞間のあまりにも固定した役割関係が形成されているならば、まず、両親が、両親の間の「固定してしまっている役割関係」について、お互いに振り返り、夫婦関係のあり方を話し合ってみる必要があります。しかし、これは、長年それなりに平衡状態を保っている夫婦においては極めて困難なことです。この種のガイダンスグループや、個別ガイダンス、あるいは、夫婦療法などがそういう場を提供してくれることがあります。